【蔵書感想4】 続・漱石全集 第六巻 心 道草

家にある本を片っ端から読んで、感想書いてみる

 

こうなるに至ったいきさつはこちら。

【蔵書感想1】 ターシャ・テューダーの言葉2 楽しみは創り出せるものよ
我が家にも断捨離ブームが到来して3年ほどですが、 家族全員本に対する執着がものすごすぎて一向に減らないので(笑)いっそもう家にどんな本があるのか片っ端から読んでみようと思いました。 超突発企画。 題して、 家にある...

漱石全集 第六巻 心 道草

前回に引き続き、夏目漱石先生の「漱石全集 第六巻 心 道草(昭和41年 岩波書店刊)」です。
遅れを取り戻すため、ちゃっちゃといきま──いきたい!!!(切)


今回はちょっと時間がないのと頭を冷やしたのとで、読後感想のみにしましたんで、オカルト的な仰々しいことはないです……メイビー……。

 

「道草」

なんというか、始まりから、縁を切っただの切らないだの、不穏でしたね。

読んだ限りだと、お話的には、どうも終始、主人公の「健三けんぞう」が幼い時分世話になっていた(らしい)養父の「島田」からお金をせびられる、みたいな流れっぽいのですが……。

これ、正直ただ読んだだけだと、私にはさっぱり、なんにも分かりませんでした。
前回の『心』みたいに、堂々巡りのループというか、漱石先生が同じことを意識的に繰り返し書いているなぁということくらいしか。(途中までは島田を巡る推理小説かと身構えていたくらいだし)

特に、

  • 島田の代理人が来る場面
  • 健三が妻の御住おすみさんと会話する場面
  • 健三が幼少期のことを思い出し、ついつい内省に努める場面

このあたりが顕著。
もっと細かく言えば健三の実の御姉さんが喘息に悩まされるところとか、御兄おあにいさんと比田ひだ(※御姉さんの旦那さん)との茶番会話だとか……すべてにおいてが繰り返しの連続。
展開が『心』とか比にならんくらいの不変さで、若干──や、大分イライラしました(笑)

しかしあのごっつい文学論の例を思い出すと、そう投げやりになっていられません。

 

(`・ω・´)<漱石先生はきっと何か裏が、意図があってこれを書いたに違いない!! あれもこれも〝観念〟を伝えるための道具!! 多分!!

 

じゃあ調べてやろうじゃねえかー、と意気込んだはよしとして、手始めに本書巻末の解説を読みましたが、

 

(´・ω・`)<まったく拉致があかねえ……

 

いきなり「『道草』は自伝的小説~云々~」と言われても拍子抜けするっていうか、「え? ほんとにそれだけ?(深読みの目)」となってしまって腑に落ちない。腑に落ちなくてなんともこう……いずい。ただの自伝小説を読んで、当の新聞とってる読者が喜ぶとお思いかね……?(無駄な喧嘩腰)

でも結局自分が納得したいだけだろ!って言われたら反論できないし、「まぁモヤモヤするけどいっかぁ……」と漱石全集の次巻を手にしたその時。

事件は起こりました(笑)

 

漱石先生と女性像、再び

堂々巡りはさておき、そう、事件はまさに当時、現場で起きていました。

この感想企画における次巻、つまり漱石全集は第5巻を読もうとして、見返しに挟まっていた月報5に気を取られなかったら、完全に見落としていました。見落とすってことは、そのくらい、私は自由な空間にのうのうと生きてるっていう証左になるんでしょうけれど……。

で、件の月報5には、はじめに「神経衰弱と女性」という題で武田泰淳先生が寄稿されてまして、そこにもう全文を載せたいくらいのとっても鮮やかで得心のいく、神経衰弱ナイーヴ系男性主人公論、いや漱石論がべられていたんですが、最後の、

女性を征服する者、崇拝する者、熱愛する者から少しく変化して、女性の「スピリット」はつかみがたいと男どもが低迷しはじめるときから、漱石の女性は、近代小説中の人物として彼女たちの「生」を生きることができるようになったのであった。
──武田泰淳「神経衰弱と女性」(岩波書店編『漱石全集 月報5』、1966年)P.4

ここで「あ、『心』の奥さんもそれじゃね?」ってようやっと合点がいきました。あー最初からこれを読んでいれば~~~!!!!!!!!

『心』の奥さんも、今回の『道草』の御住さんも、きっと当時としてはびっくりするぐらい、慣習に囚われず、夫に依拠せず(『心』の奥さんって夫である「先生」を愛してはいても、愛してるだけで、個人としてはいい感じにフリーダムしてると思うんすよね)、自由で、独立してたんでしょうね。だから旧体制から離れがたい主人公ズからは異様な者なり、超然者なり認識されていた。
今私が読んでも、御住さんは主人公の判断や島田に対して、至極真っ当なことしか言っていないようにしか思えないんですが、もしかしたら発表当時、御住さんは全国の、旧時代的な亭主関白に鬱憤を募らせる女性読者の気持ちを代弁してくれていたのかもしれない。

「字が書けなくつても、裁縫しごとが出來なくつても、矢つぱり姉のような亭主孝行な女の方がおれは好きだ」
「今時そんな女が何處どこくににゐるもんですか」
──夏目漱石『漱石全集 第六巻 心 道草』(岩波書店、1966年)P.492

私、単純にこの御住さんの、健三に対する台詞を読んだとき、「言ったれ言ったれ~(棒)」って心の中で囃し立てるくらいなもんだったんですが、当時に生きて読んでいたら、シャオラーーーッッ!!!って近場のバスティーユ(喩)に突撃していたやも……?
晩年の漱石先生は今の(当世の)女性を描くことに、私が思っている遥か以上の熱意を向けていたのかもしれない……それは何も人権に限ったことではなく、小説として、文学としての技倆を試す意味も兼ねて。最後のは私の妄想ですが!

で(?)、
一応、武田泰淳先生の論以外にも、こう思うに至った根拠はあって、それはこの「道草」における登場人物像からなんですが、
旧体制に囚われし漱石作品主人公ズの一人、健三のほかにも、「(思想的)新旧対立」構造を作っている人物が居て、

  • 旦那さんとは違う自分の意見を持っている御住さんに対し、ときには冷酷ないい加減さであれ旦那にはどこまでも従順に尽くすのが普通と考える御姉さん
  • かつての養父だろうが島田の無心なんぞすっぱり断ればいいと言う御住さんに対し、せめてもの義理を立てろと体裁に固執する御兄さん

ほとんどもう新時代に生きるOSUMI-SANと対立している恰好で、読んでいるとき、分からないながらも気になってはいました。しかしその気付きをどう解釈するかは、武田先生の論がなければ上手くいかなかったっす……。ありがとう、先生……!

 

まとめ:堂々巡りと「文学論」──意識推移と3つの集合的F

またかよ!!感ありますけど、「道草」のあのモヤッとする堂々めぐループ(?)を自分なりに解釈するにはもう、漱石先生書き下ろし公式ガイドブックに頼るしかないと思って、心もそれでやればよかったじゃんとも思いましたけど、「文学論」はまったく読み飛ばしていた第五編 集合的Fを読むことにしました。
感想記事の趣旨どこいった。

でもって、そこにはこうあります。

一代に於る集合意識を大別して三とす。模擬的意識、能才的意識、天才的意識是なり。こゝに意識と云ふは意識の焦點(卽ちF)なる事は言ふを待たず。而此區別は内容の形質に就て此三種の間に存する關係より生ずるものにして、其内容の實質を列擧して得たる結果にあらず。
──夏目漱石『漱石全集 第九巻 文學論』(岩波書店、1966年)P.409

模擬的意識とはわが焦點の容易に他に支配せらるゝを云ふ。支配せらるゝとは(中略)要するに嗜好に於て、主義に於て、經驗に於て他を模倣して起るものとす。
──同書 P.409

能才的Fは大衆に先だつ事十歩二十歩にして、大衆の到着すべき次囘の焦點に達し、顧みて大衆を靡くを常とす。後れたる大衆は後れたるを忌んで、半途に踵を囘らして他の焦點に方向を轉ずる能わず。(中略)能才的Fは模擬的Fの必ず到着すべき點に、模擬的Fより先に到着する(後略)
──同書 P.414

第三の意識を名けて天才的Fと云ふ。(中略)此人は多數の民衆がFに固定せる間に、少數の能才がFʹを豫想しつゝある間に、既に幾多の波動を乘り超えてFnに馳け拔けたるものなり。
──同書 P.415-416

この三つのFは常に次へと推移していきますが、模擬的・能才的Fはほとんど天才的Fとの鼬ごっこに終始(円順)し、さらにその推移は必ずしも進化ではないよう。
つまり、何かしら成長するわけではない。

そして漱石先生曰く、「余は集合意識の推移を究めんと欲して、(同書、P.433)」自らの文学的手段をその証明にあてており、持論として「宇宙は三を以て成立せざるものなし(同書、P.420)」ということなので、

早くも答えが出ちまった感甚だしい

つまりこの「道草」もまた、己の身の上にあったことをきっかけに構築してみた試験作の一つということになりますね。

「心」で三つの要素、三つの区切り、みたいなのが目についたのも、宇宙観として三を据えているのだから当たり前。
それが所謂、漱石先生の「意識の核」でしょうから。

でも試験場だと思うとちょっと悲しいですね。悲しいというか、度々文学論中に散見される「吾人は繰り返す」のあたりを読むと、周囲の変わりのなさに苛立つ漱石先生の姿が薄っすら見えるというか。
文字の上に自分の観念のルールを被せすぎでは? とも。書くのが楽しいのか苦しいのかよく分からない。両方でしょうか?

すでにあるものを試験して証明するより、すでにあるものから新しいクリーチャーを生み出したい(けど毎度古代文献を読んでは既出ということに嘆いている)派としては目新しさがなくて、読んでも唸るしかできないのですが、それでも先生がこうやって既知の現象を「言語化」しようとした点はめちゃめちゃ大きいと思います(文学論のときも言った気がするけど)。

「道草」と「心」は限りなく冷徹に精神解剖を試みた結果の産物で、漱石先生の内での純粋科学的なものなのかもしれない……。

ていうか、前回のまとめが恥ずかしくなってくるよ先生!!!!ごめんね!!!!!
思いついて、調べているときは楽しかったんだ……けどね、目の前に公式読本があるじゃんね\(^o^)/

さて次回はまだ漱石先生の「彼岸過迄」と「行人」です!
ひゃー……。

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