【蔵書感想3】 漱石全集 第六巻 心 道草

家にある本を片っ端から読んで、感想書いてみる

 

こうなるに至ったいきさつはこちら。

【蔵書感想1】 ターシャ・テューダーの言葉2 楽しみは創り出せるものよ
我が家にも断捨離ブームが到来して3年ほどですが、 家族全員本に対する執着がものすごすぎて一向に減らないので(笑)いっそもう家にどんな本があるのか片っ端から読んでみようと思いました。 超突発企画。 題して、 家にある...

 

どうも~……熱出したり腸炎だったりで更新滞ってました、朝風です。
ほんとに腸が反乱を起こしていた……。

 

 

漱石全集 第六巻 心 道草

 

はい。ボヤキはさておき、夏目漱石先生第2弾、「漱石全集 第六巻 心 道草(昭和41年 岩波書店刊)」です。
お隣にあともう1冊あるから、「まだ漱石先生なの〜?」とかヘタれている場合ではないぞ自分。どんどんいきましょう。じゃないと蔵書把握して冷静に断捨離とか言ってらんなくなるぞ!

前回よりもめちゃめちゃ長くなったので、今回は次回分も取って本書感想を「心」と「道草」の前後編に分け、見出しで区切ります〜。
それと、相変わらず漱石先生に関する知識はうっっっすいです。前回以上のことは何も分かっていない……。

 

「心(こゝろ)」

 

さて、今回は「心(こゝろ)」と「道草」が収録されているようですが、
「こころ」といえば、教科書でお馴染み「Kさんがおっ出てくるお話ですね!

とはいえ、個人的には「こころ」より森鴎外の「舞姫」のほうが色々な意味で思い入れある1ので、授業時にクラスがやたらKについて盛り上がっていなかったら、もうすっかり内容とか忘れてただろうなって思うんですが♨

で、印象がもうそんななので、読むまで主人公の「私」がどこで「先生」と出会ったか、なんてすっかりさっぱり忘れてました。

会うの、鎌倉なんすね!(笑)
しかも「私」、「私」を鎌倉くんだりまで呼んだ張本人である「友達」に置いてかれてる2し(笑)

にしても、鎌倉の海浜で出会う、なんて洒落てますねぇ。湘南の邂逅ですよ〜もう本当文筆家って湘南好きな!!

それと改めて思いましたが、導入からしてめちゃくちゃ読みやすいですね。当の漱石先生から「ただ口語体ってだけでそんな……」とか言われそうですけど。
前回が超高級料亭の(すごすぎて気圧される)会席料理だとすると、今回は超敷居が下がって、美味しい美味しい冷やし茶漬け、な気がします。

ちなみに序盤ではここが好き。

 

私は毎日海へ這入はいりに出掛けた。(中略)ある時は海の中が錢湯の樣に黒い頭でごちゃ/\3してゐる事もあつた。其中そのなかに知つた人を一人もたないわたくしも、ういふ賑やかな景色の中につゝまれて、砂の上に寝そべって見たり、膝頭を波に打たして其所そこいらを跳ねまわるのは愉快であつた。 ──p.6-7

 

「私」、なんか可愛い……!

しかしそのあと、「お前、ちょっと気にしすぎでしょ……」ってなぐらい「先生」にグイグイ迫ってく「私」の模様に、一抹の不安が(笑)

日々、最初に「先生」を見かけた時間と同じ時間に浜へ行っては「先生」の顔を確認、「先生」が眼鏡を落とせば「先生」が眼鏡を探し出すまで見てから拾って渡してやり、「先生」が海に飛び込めば、あとに続いて海に飛び込み、二言三言交わしてまた一緒に帰る。

 

先生は又ぱたりと手足の運動をめて仰向あふむけになつたままなみの上に寝た。私もその眞似まねをした。(中略)「愉快ですね」と私は大きなこゑを出した。
しばらくして海の中で起き上がる樣に姿勢を改めた先生は、「もうかへりませんか」とつて私を促した。 ──p.11

 

そしてこの海中での交流が(なぜか)お互いの懇意のきっかけに。
でもこういう一見些細に見える交流が実は深い、ってやつ、いいなぁって思います。それまでに「私」、「先生」との交流の機会を求めすぎな気がしなくもないけど(笑)

 

しかし君、恋は罪悪ですよ

 

あっ、この名台詞この話だったのか! と思った瞬間。
「私」が「先生」と上野でいちゃいちゃしている男女を見て、そこで交わす会話に出てくるんですが、

 

「君は今あの男と女を見て、冷評ひやかしましたね。あの冷評ひやかしのうちには君がこひを求めながら相手を得られないといふ不快のこゑまじつてゐませう」
(中略)
戀の滿足まんぞくを味はつてゐる人はもつと暖かい聲を出すものです。しかし……然し君、戀は罪惡ですよ。わかつてゐますか」 ──p.36

 

上はすべて「先生」の台詞の引用ですが、これと、このあとに続く「先生」の〝あなたの心は戀で動いている〟云々でハッとさせられました。

やたらに「先生」との交流を求める「私」。「先生」に『なんかどこかで会ったことがあるような気がするんですよね〜しませんか〜?』と言ってあえなく振られ、残念がる「私」。そもそも主人公が「おれ」でもなく「僕」でもなく、なぜ「私」なのか。
結末を先に授業で習っている分、「私」と「先生」との位置関係に「K」の面影が見え隠れ、っていうか胸がザワザワしてきたっていうか……。

これ……もしかしたら漱石先生、「技術」で読者を殴りにきてね?

ただの三角関係みたいな、ドロドロ心理劇ではないんじゃないのか……?

そう深読みし思い始めると、あらゆる箇所が気になってきます。
特に、

  • 頻出する「愛」、「恋」、「心臓」という言葉
  • 登場人物をこれといってキャラ立ちさせず、おとなしめに描いている
  • おとなしめに描いているが、その割に登場人物の「感情」が(うざったいほど)鮮やかで、際立っている
  • 登場人物の使う「感情」をいちいち「私」が気にする(或いはいちいち
  • 話が必ず、ある人物の一人称視点で描かれている

並べれば並べるほど「は? それが何?(笑)」って言われそうな部分ですけど、前回の文学論を踏まえるとどうにも警戒するというか……一番最初の項なんて、該当語すべてに「心」という字が入ってますし。

と、ここで痺れを切らして(?)わたくし、とうとう青空文庫の夏目漱石作品一覧に飛んで、「心」と題されたるものにすべて目を通してしまいました……。
あんだけ(??)ネタバレ嫌だったのに、自ら地雷を踏みに行った────……!

結果。

 

自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む。

──夏目漱石 『心』広告文(青空文庫) より

当時の予告には数種の短篇を合してそれに『心』といふ標題を冠らせる〔つもり〕だと読者に断わつたのであるが、其短篇の第一に当る『先生の遺書』を(中略)その一篇〔だけ〕を単行本に纏めて公けにする方針に模様がへをした。
然し此『先生の遺書』も自から独立したやうな又関係の深いやうな三個の姉妹篇から組み立てられてゐる以上、私はそれを『先生と私』、『両親と私』、『先生と遺書』とに区別して、全体に『心』といふ見出しを付けても差支〔さしつかえ〕ないやうに思つたので、題は元の儘にして置いた。

──夏目漱石 『心』自序(青空文庫) より

 

めっちゃ簡潔に書いてあった。てか連作だったのか!(※習ったのかもしれないけどすっかり忘れ去っている顔)

やっぱりこの作品は、先生がテーマを「心」にして、技術でもって読者に揺さぶり(感情喚起)をかける意欲作だったみたいっすね……。

さっき挙げた気になる点も、そう考えると構成上得心がいきます。と言う朝風はこのあとに泥沼三角形(深読み)が待ち受けているなぞ、知る由もなかった────。

しかし……話戻って上野公園のくだりですが、あの「先生」の台詞、初見で思いっきり「君はリア充爆発と言いましたね」って脳内変換されたんですけど……いや当然のことでしょうが、当時もそういう認識はあるんですよね、懇意な男女を邪険に扱う人が居る、っていう。こんなところでほっとするなど(笑)

 

激迫!? 奥さん(お嬢さん)のナゾ

 

なんか段々研究記事ぽくなってきました……どういうことなの。
読んでる途中でふと気になり、ほかに「心」を読んだ方は「心」についてどう評価したり、感想を書いているのかなぁ、なんてざっと調べたんですが、大体、

  • お嬢さんのこと

を取り上げてらっしゃる方が多いなぁという印象でした。
前回の「文学論」に挟まっていた漱石全集月報9にも、圓地文子先生が、

 

しかし、私は、(中略)「お嬢さん」後の「奥さん」の描き方については不滿足を感じてゐる。そのことが彼女の善良さであるとして記されてゐても、自分を愛した爲に二人の男の中の一人が死んだといふことについて、全く無傷でゐられるといふ女性に私はあまり好意を感じることが出來ないのである。

 

とはっきり書かれてますし、これはもしかしなくても出版当時から続いてきた疑問、反感の一つなんでしょう。

でも本当に、「お嬢さん(奥さん)」は漱石先生の下手ベタ女性像なのか?

上の引用のあとに圓地先生が寺田寅彦先生と「心」についてお話されたことが続きますが、その時の寺田先生の含んだ言い回しったら……。

あれは単なる男性強権社会の筆だから、でいいのか? と。

モヤモヤしたまま(まだ序盤を)読んでいた私は、ここで、故郷くにから帰ってきて菓子折りに入れた椎茸を差し出した「私」の、奥さんを評する言葉に目が留まりました。

 

鄭寧ていねいれいを述べた奥さんは、次の間へ立つ時、そのをりを持つて見て、輕いのに驚かされたのか、「こりや何の御菓子?」と聞いた。奥さんは懇意になると、んな所に極めて淡泊な子供らしい心を見せた。 ──p.66

 

あれ? そういやなんか似たような描写を前も見かけたような……。
「私」が「先生」宅近辺で空き巣沙汰があった際、ちょうど外用事があって不在になる「先生」の代わりに「先生」宅で奥さんと番をしたあとの……

 

かへる時、奥さんは「どうも御氣おきの毒さま」と會釈ゑしやくした。その調子は忙がしいところを暇を潰させて氣の毒だといふよりも、折角來たのに泥棒が這入らなくつて氣の毒だといふ冗談のやうに聞こえた。 ──p.56

 

あとは大分後半になるけれども、

 

御嬢さんの態度になると、知つてわざとるのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其所そこ區別くべつ一寸ちょっと判然しないてんがありました。 ──p.232

 

これだ。
巫山戯てるのか、そうじゃないのか、微妙に捉えがたい感じ。単に茶目っ気があると言うよりも、なんとも言えぬ天然味に振れてる雰囲気。奥さんはもう構造上「そういう」キャラクターなのでは?
そしてそういうキャラクターでなければ物語として、「先生」は苦しまなかったのやもしれない。恋を、罪悪であるとは言わなかったのかもしれない。子供もうっかり作れていたかもしれない(コラ

「先生」を心底愛しているらしい奥さんが、こうしてどこか「先生」とは違った方面から〝淡泊〟で超然としていることで、「先生」は作者の定めし結末から逃れられなくなったのではないか?

思いっきり感情移入して読めば、なんだか「先生」が不憫に思えてきますし、そりゃ奥さんに対しても大分「漱石先生~理想化してんじゃねえよ~」ってな気分になりますが、文学作品として一旦視点を離すと、かなり簡潔したスマートでクールな人物配置と構成に思えます。さっすが文豪。
ていうか前回の「文学論」でもちらっと思いましたが、小説って、技術的(情緒的?)完成度を上げようとすればするほど、善悪観念やら道徳なんぞいうものからは遠ざかるのかもしれません。なるほど、かつて私にそっと教養小説を勧めてきた現国の先生はこれを言いたかったんですね!?(※勝手な憶測)

 

身につまされる「両親と私」、容赦してほしい「先生と遺書」

 

第二部は読んでるとものすごく現代とマッチする気がしてつらい/(^o^)\
(とはいえ、当時も今も完全に「人に拠る」でしょうから、一概に言うことはできないですが……)

 

「(前略)元來學校を出た以上、出たあくる日からひとの世話になんぞなるものぢやないんだから。今の若いものは、金を使ふ道だけ心得てゐて、金を取る方は全く考えてゐないやうだね」 ──p.120

 

ひー(泣)
これは「私」が大学卒業後に帰省し、9月になってまた東京へ向かおうかな~どうしようかな~と悶々している時に田舎の父親から言われる言葉ですが、今も昔も言われることは変わってないんですね!!
引用以外にも「私」がうんざりするほど、お父さんお母さんの小言やらは初っ端から盛り沢山ですが、あまりに現代と変わってなさすぎて逆に安心する部分もあったり(笑)
そうそう人類の思考回路が変わってたまるかという気持ちも湧いてきましたが……どっちだよ!

そして「私」もまた、サリンジャーの描く男子大学生4の如く、実家やその周辺に対してまぁ「おれにゃあ全部分かってんだぞ!」とばかり断定的な物言いをしまくり、微笑ましい。

しかしすぐ、そんな風に「うふふ」と読んでいられなくなりました。
以前から倒れたりしていた「私」のお父さんの調子がいよいよ悪くなり……。ここらへんはつい、私(朝風)の祖父母のことを思ってしまいました。同じ病気ではないですが、なんのなんの大したことはない、という態度がリンクするというか……いや私だって実際調子が悪い時、「大丈夫?」って言われると余計な心配をかけさせたくないのと、案じられるのが妙に煩わしい(すいません……)のとでつい「(こんくらいなら)大丈夫~!」なんて返してしまうんですけど。己を棚に上げるというやつです……。
「私」も、己を度外視しているから、うだうだうだうだ、父親をああだこうだと論じてしまうんでしょう。気持ちは分かる。それで気が晴れるなら存分に捏ねくり回すがよし(なんの話だ)。

さて。お父さんが危篤、というそのきわに至って「私」は「先生」からの手紙を受け取りました。
ここからは授業でもやった「先生」の秘められし過去の告白パートですが、どうして「先生」が告白を決意したのか。決意のきっかけ自体は序盤の「先生と私」でも「先生」が「私」との会話中口にしています5が、再び「先生」自身が手紙(遺書)の初めに記した、いっそ過激とも言える言葉でなんとなく、「あ~、赦されたいのか……」なんて思いました。
野暮承知で、該当箇所。

 

有體ありていに云へば、あの時私は一寸ちょっと貴方にひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかつたのです。 ──p.151

私は暗い人世じんせいの影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけてあげます。(中略)あなたは私の過去を巻物のやうに、あなたの前に展開してれとせまつた。私は其時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものをつらまへやうといふ決心を見せたからです。 ──p.154

 

更に引用箇所の直後あたり数行を読むと、SFだったら(?)グレッグ・イーガンの「エキストラ(The Extra)」みたいに延命というか、自分から複製したエキストラの体を用いて再生する、みたいな一種の執着を感じるというか。
もっと変に深読みするなら、「頭の上に投げかける」だの「(血を)顔に浴びせかける」なんてのも、キリスト教的な洗礼=人間として成る、のあれなの? とか、「私の鼓動が停まった時」云々はキリストの復活みたいなもん? とかなる……かな……?(雑すぎ?)

とまれ、あなたのため、とは言いつつも、前半で「あなただけは疑いたくない」と漏らしていた「先生」は、その実受け入れられたかったのかな? と。
そのうち「先生」、「私はまだ人間ですか!?」とか言い出しそう。切迫して、臨界に達しそうで、どうしようもない自責の暗黒の最中、ぐいぐい踏み込んで来る「私」の存在に、甘美というか、許容範囲の光を見出した、みたいに見える。

あ、でもそうなると、邪推も邪推だけれど、「先生」が小悪魔みたいだ。
「私」が自分に恋を、興味を抱いていると自ら口にしといて、若く経験の少ない「私」にそうなのか……と思わせる。「私」がそれでも引いて逃げなければ「許容の素質あり」。逃げれば「なし」。
そうして試験を繰り返し、「私」に資格ありと認められた時、我が身のうちを披露する……。
もし実際に「私」に会っていたとして、披露したあとどうしたのかは分かりませんが、結果的に「先生」は死んでしまっていて、つまり自分の一番秘する部分を打ち明けて超急接近したと思えば永遠に届かぬ場所に行ってしまったわけで……ミステリアスな「私を捕まえてごらーん」の『恋慕持続作戦』の顛末に思えるというか……。

恋は駆け引きの流れですか? って真意は漱石先生のお墓の中なんすけど。

恋をしていたのは、したがっていたのは、「先生」なのかもしれない?

 

まとめ:で、Kさんは?

 

正直今の「恋をしていたのは~」で締めたかったんですが、肝心のKさんをほったらかしにしてしまったので、最後にちょいと彼についての感想を。

死ぬほど反省しているイゴイストな「先生」の親友、お金に困らん真宗寺生まれの「K」さんは、思想や哲学にぶっているような、日蓮ファン宗教傾倒の人。
何か人を惹きつけるものであれば、聖書だろうがコーランだろうが読んでやろうじゃあねえか、という気概の持ち主です。
あらいやだ、選り好みしないところがちょっと好感持てる(笑)
しかも自分の進む道に迷いなく、一匹狼っぽい感じで基本寡黙。気難し系?と言っちゃあそれまでですが、実直だと思えば。ただ、「先生」にとっては「この堅物が~~~~」という感じだった模様。
手紙のうちで、若き「先生」は彼との旅行中、彼から結構厳しいことを言われていたので、そう思うのも無理はない。宗派がどうあれ信条がどうあれ、自他にストイックすぎたんですよ「K」さんは……(誰)

ああまで切り詰める人でなかったら、「K」さんはもっと長生きしたでしょうね。しかし、そうだったからこそ、こうまで厳しい自分の有り様を受け容れ、今まで付き合ってくれた「私」に特別の親愛を抱いていたと思われる。
じゃなきゃ上野(「私」とも行きましたね!)で「自分に弱い部分がある」「自分が恥ずかしい」なんて吐露しない。
ストイック且つ「剛情」で「勇気」ある人──少々完璧主義に振れているような人は、ガチの赤の他人認定してる誰かに、自分の弱みなんて見せない。ましてや自分の信条に反する欲望にブレているところなんて。

ここで「Kさんも赦してほしかったのかもしれねえ……」なんて思い出すとどん詰まりですよね。入れ子式ループ。

ループと言えば、本書前半における「先生」と「私」の関係に「K」さんの面影が見える気がしたのは当然だったかも?
「先生」は最初から、特に墓参り目撃事件から、「私」を「K」さんに重ねていた節があって、けれど読んでいる側からはどうも「先生」こそが段々と「K」さんに侵食されてっているように思えて……いや「私」は「先生」と「K」さん両方の資質を備えているように読めるし、これってつまるは、「先生」と「K」さんと「私」=父と子と聖霊の三位一体……? あーっ! 深読みが!! すぎる!! 病みそう!!(笑) この話はもう止めよう漱石先生!!!

 

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おまけ:蛇足超考

「私」のその後を考えていたら……

ところで止めようついでにKさんからは逸れますが、「先生」自身があれだけ「自分には生の人間部分もあるんだぜ」アピールをしていたにも関わらず彼を尊敬尊崇し、田舎に帰しても度々心のうちで求めていた「私」、あの手紙を読んだあと、どうしたんでしょうか。
個人的には、汽車の席で「私」に冷たい顔で手紙を握りつぶしつつ「歸らうか」なんてひとりごちてほしいですが、それじゃあんまりにも漱石先生らしい情緒がない!
なんとなくですが、「私」もまた同じ轍ループするのかな……とか、そうでなきゃ三位一体(仮)に復活(仮)という要素がある(仮)ということで、俄然「私」は救世に向かって邁進するのか……なんて……んんーっ!?(呻き声)

結局話を止められなかったし(笑)どうもあの堂々巡り加減が落ち着かなくて気になるので、思い切って「『心』の主人公たる『私』は『先生』と『K』さんの両性を持つ聖霊である」「そしてそのためには『私』と『先生』と『K』さんが三位一体の関係でなければならない」という乱暴な仮定on仮説を立ててみます。

するとここで付随して色々検証(?)項目が増えるわけですが……。

  • 「私」、「先生」、「K」=三位一体?
    • 「私」=聖霊?
      • 三位一体が教義通り〝聖霊=父=子〟なら、「父」はどっち?
      • 〃「子」はどっち?

果たして「心」の閉鎖性はトリニティなのか? そして「私」とは一体何者なのか!?(笑)

 

超偏見! 留学先の国教に則った考察(妄想)!

もし漱石先生が本格的にキリスト教要素を持ち込むとしたら、その源は、留学先の英国で学んだことだろうなと勝手に推測。で、その英国はプロテスタントというか、たしか聖公会発端の国。
聖公会の内でもイングランド国教会は、1563年頃から〝三十九箇条(Thirty-nine Articles of Religion)〟なる教義書に則っているらしいので、まずはその三十九箇条とやらを覗いて、そこでの聖霊の定義を確かめるべし!

……と、思ったところまではよかったのですが、どうも三十九箇条は作成時からの不変ではなく、何回も改訂とかされているみたいで……(そりゃそうか!)。

とりあえず、イングランド国教会公式HPが公開している現行(?)版と、フォーダム大学が公開している1571+1662年版、日本聖公会宮崎聖三一教会の小林司教さまが公開されている日本語訳版(原書年?)を比較、確認してみることにしました。

 

Articles of Religion | The Church of England ←イングランド国教会のほう

Modern History Sourcebook:
The Thirty Nine Articles, 1571, 1662|Internet History Sourcebooks
 ←フォーダム大学のほう

英国聖公会の39箇条(聖公会大綱) ←日本語訳版のほう

 

まず第1条からして早速三位一体について書かれていますが、神には肉と感情はなく、無限の力と知恵、善性にてるとあります。

で、問題の聖霊については上日本語訳版第5条に

 

御父と御子から出る聖霊は、実体と権能と栄光において御父と御子と全く同一であり、真実にして永遠の神である。

 

とあり、フォーダム大学と御本家のほうでも書いてることはほとんど一緒。「父」と「子」と「聖霊」は同一であると。

ほとんど一緒か……。

というわけで今度は教義上明確に等式へ持ってこられた「父」と「子」についても目を通してみます/(^o^)\

「父」は特に見当たりませんが、「子」について重点的に書かれているのは第2条です。
以下日本語訳版より。

 

第2条 真実に人となられた御言、すなわち神の御子について
御子は、御父の御言、真実にして永遠の神なる御父から永遼に生まれ、御父と一体であり、(中略)神性と人性とは唯一の位格の内に合わせられ、決して分けられることのない真の神、真の人である唯一のキリストである。御子は真実に苦難を受け、十字架につけられ、死んで葬られ、御父と私達とを和解させ、原罪ばかりでなく、人間のすべての実罪のために、犠性になられた。

 

あーっと。
「私」はさておき(?)これ、「子」は「K」さんでしょうか?
清廉でストイックな部分と恋情との狭間にあった「K」さんを、神性と人性を併せ持つ人格(原:the Godhead and Manhood, were joined together in one Person)と解釈するならば、ですが。

しかし御言というのが気にかかる。
きりがなさそうだし強引に振り切っちゃってもいいかもしれないけど、御子は御父の御言から生まれ、ってあるのが、若き「先生」が上野で言い放ったブーメランワードによって覚悟を決めた「K」さんを指すとしたら、「子」=「K」さん? という式は成り立ちます。
が、「聖霊」=「私」という仮説で進んだ場合、「子」もまた「私」なので、「先生」との会話の影響を受けている「私」の方面に解釈も可能。

でもって、両者どちらの解釈でも、「先生」=「父」ということになる。
「先生」は前述した通り、「K」さんにも一応、痛烈な言葉でもって影響を与えているわけだし。
あら、でもそうなると「先生」という呼称にも納得できるような……まさか「K」は「子」のKじゃないだろうな!?(笑)

 

引っかかるアングリカン・コミュニオンの基本理念──「和解」

あの三人が三位一体関係だとして、「聖霊」は「私」、「子」は「K」さんだろう、ということで、消去法的に「父」は「先生」という(私の中での)納得に至りましたが、
引用した三十九箇条第2条の一番下の文に、超絶気になる言葉が並んでおりますね。

  • 苦難
  • 和解
  • 原罪
  • 犠牲

これ、仮説フィルター越しに解くとしたら、「K」さんは愛欲に悩んだ末、死に、「先生」と人間とを和解させ、原罪と人間のすべての罪のため犠牲になった

になるけど、「和解」ってなんだ~~~~! 雑仮説ここで詰むのか!?(笑)

ちなみにイングランド国教会の生み、属するイングランド聖公会は更に聖公会連合とでも言うべき聖公会の集まり「アングリカン・コミュニオン」に属していますが、このアングリカン・コミュニオンの基本理念がどうも「和解」のようなのです。
公式HPにもばばーん!と『Reconciliation』!!ってありますし。

 

Reconciliation is the hallmark of Anglicanism
──Reconciliation|ANGLICAN COMMUNION

 

仮説ゴリ押しで行くと、「先生」はどうも、あんなに嫌っていた人間6と和解済みらしい。

公式HPの見解を見る限り、アングリカン・コミュニオンにおける「和解」の定義には平和と正義がつきまとうようだけど、「先生」は「K」さんの死後もずっと、苛烈に人間性を疎んでいたように思う。手紙でも気の変わった様子は見られないし。

(ノ∀`)あちゃー。
てなわけで、ここらへんちょい無理があるな!(最初からゴリ押しだったけど)。
というか、漱石先生は果たして三十九箇条やアングリカン・コミュニオンの「和解」に着目していたのかどうか……。

ただ、この「心」本編中に多かれ少なかれキリスト教要素が見える点についてはこっそり主張しておこうと思います。

 


余談ですが、三位一体という概念は何もキリスト教に限らず、インドはヒンドゥー教や、仏教にも(否定する論もありますが)「三身」という言葉で存したりしますから、仏教方面での考察をやっても面白かったかもしれません。

 

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  1. 朝風は当時「舞姫」の感想文課題で、「豊太郎は結局何したかったんだよ、ていうか鴎外先生は自分の慰みのためにこんなの書いたんじゃねえだろうな!?💢」という頭に血の上ったまるっきりの批難文を書いて提出してしまい、先生に苦笑いの赤ペンコメントを入れられ、挙句、教養小説を勧められました。 ↩︎
  2. 「友達」は田舎から電報で呼び戻されました♨ 詳しくは本書を(笑) ↩︎
  3. 踊り字( 〱 )部分です。 ↩︎
  4. フラニーとゾーイー(野崎孝訳版)で、フラニーが駅に降り立つ前の描写にあります。サリンジャーの観察眼怖い(笑) ↩︎
  5. 1966年発行の本書でいえば p.86 です。 ↩︎
  6. 「(前略)人間全體を信用しないんです」 ──p.40
    私は(中略)彼等が代表してゐる人間といふものを、一般に憎む事を覺えたのだ。 ──p.84 ↩︎
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